現在の御殿場線(沼津駅~御殿場駅間)を開通時代の遺構を探して散策します。
この区間は明治22年(1889年)2月1日に東海道本線として開通しました、その後複線化工事が行われ、昭和9年(1934年)12月1日丹那トンネルが開通するまで活躍していました、特に佐野(現・裾野)駅から富士岡信号所(現・富士岡駅)までは25‰の勾配が続く、東の難所で岩波信号所と富士岡信号所にはスイッチバック設備があり、各時代の高性能機が充当され補機を付けた列車が走り抜けました。
また、優等列車は機関車の付け替えや補機の取り付け、切り離しの時間を少なくするために、御殿場駅附近では走行中に補機を切り離し、優等列車を停車させないで走り抜けると言う運用がされていたそうです。
まず、眼に留まったのが沼津駅から北西へ約1.8キロ静岡県駿東郡長泉町本宿附近にある石造りのアバット(橋台)です。
現在、御殿場線は単線で電化されていますが、開通から2年後の明治24年(1891年)に複線化されました、この橋台も複線時代の名残が残っています。
さらに北北西へ約1キロ、旧三島駅(現・下土狩駅)同長泉町下土狩附近に小さな石積みのホーム跡を発見しました。
このホームは東海道本線のホームなのか?貨物用のホームなのか?明治31年(1898年)5月に開業した豆相鉄道(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)のホームだったのか?私には判りませんが、撮影してみました。
旧三島駅(現・下土狩駅)から北へ約1.2キロ同長泉町納米里附近で見つけたアバットです。
このあたりも複線当時の面影が残っています。
石造りのアバットから北へ約1キロ静岡県裾野市水窪附近にはレンガ造りの橋台がありました。
橋台には床石や囲みなどがコンクリートで補強されていて、昔の面影は下半分だけの状態ですが、沼津駅から移動する中で、始めて見たレンガ構造物です。
さらに北に150m移動、先ほどよりも背の低いレンガ橋台を発見。
この橋台は富士面橋梁の橋台で、昔の面影を多く残す橋台になっています、小さい橋台ながらも床石も残っている趣の有る橋台です。
更に北へ400mにある土屋橋梁です。
先ほどの富士面橋梁よりは高さがある橋台で、こちらも床石が残っています。
更に更に北へ600m同平松附近に本格的な橋台が有りました。
この橋梁は平松橋梁で、鉄橋は鉄道省時代の鉄橋が載っています、ただ、水道配管?が通っているために見づらいですが、レンガ作りの大きな橋台です。
旧・佐野駅(現・裾野駅)手前400mに石造りの水路トンネルを発見しました。
古い廃線跡を散策しているとレンガ作りのまんぽ(アーチトンネル)が多く見られるのですが、ここは平板を四角く組上げたトンネルを見つけました。
旧・佐野駅(現・裾野駅)の南端には線路の両脇にスイッチバックを思わせるような盛り土が残っています。
左側の盛土の上にはコンクリート製の車止めが残っているのですが、この両サイドの引き上げ線は一体何に使われていたのか? 歴史資料を紐解いても記述が発見できません、スイッチバックで無いとすれば・・・・? 疑問の残る盛土です。
開通当時から存在した駅・・・佐野駅(現・裾野駅)・・・この駅は開通当時、沼津駅~御殿場駅間で唯一の駅だったようで構内には歴史的構造物が多く残っています。
まずは駅舎
屋根の明かり窓がステンドグラスになっていたり、屋根が葺きかえられているようですが、開通時(明治22年)からの建物でしょうか?
駅車内の天井は
漆喰仕上げの彫塑が施されている品格のある天井です、ただ、残念ながら現代の照明器具が取り付けられているので、趣は薄くなっています。
構内には
石積みの危険物倉庫(ランプ小屋)?が有ります、本当にランプ小屋かどうかは判りませんが、火山岩を切り出したような石造りの小屋が有りました。
ホームも
石積みのホームが残っています。
駅から少し離れて、構内の南側には東側から見ても
西側から見ても
東西共に石積みの土留めが残っています。
旧・佐野駅(現・裾野駅)から北へ2.6キロ同市深良附近、切久保川橋梁は
またまた、石積みの橋台に代わりました、この沿線では石積み区間とレンガ積み区間が交互に現れるのでは?と思ってしまいます。
切久保川橋梁から北へ600m
この区間での一番の発見!!私にとっては・・・・ですが。
レンガ積みの「まんぽ」を発見しました。
その裏側は・・・・
こんもりと茂った林の中に石積みとレンガで作り上げられたまんぽが現れました。
このまんぽから北へ約900m、新川踏切から南を眺めています。
この付近も、昔の東海道本線時代の複線の名残がきれいに残っています。
岩波駅の手前には新川橋梁があります、この鉄橋の橋台は
石積みで複線当時の面影を残しています。
そのすぐ横にはこんもりとした丘があります、この丘が実はスイッチバックの跡地なのです。
岩波駅の南側にあるスイッチバックの盛土です。
このスイッチバックを駅側から見てみると
駅のすぐ横からスイッチバックの進入路が盛土が残っているのがハッキリ判ります。
スイッチバックとは
蒸気機関車が全盛の時代、鉄道輸送で多くの荷物を貨車で輸送していました、しかし、蒸気機関車の能力一杯の貨物輸送が増えてきたため、長い上り坂区間では石炭をくべても蒸気圧が下がってしまい、一気に登りきる事が出来ない状況になってきました。
そこで、下図のように駅を一度通り越して(①、②)、待避線にバックで進入します(③)、そして、待避線で石炭をくべて蒸気圧を最大にして、また、上り坂を登って行く(④)運用をしていました。