関西鉄道会社(三雲駅~貴生川駅間)

三雲駅を出発すると関西鉄道は野洲川に沿って走ります。

 野洲川に沿って大きく南へカーブし南下が始まります。

 滋賀県甲賀市水口町岩坂附近に掛かる鉄橋です。橋台はレンガと石で組み上げられています。

 

 川の中央に建つ橋脚もレンガと石で作られています、川の上流部は尖塔形になっていますが、下流側は矩形になっています。

 この鉄橋のすぐ南側には

 小さなまんぽが有ります、レンガ作りのまんぽで十三佛と書いてあるので、十三佛架橋で関西鉄道時代からここにある物だと思われます。

 近くで見てみると

 スプリングラインから下側は切石を積み上げた構造で、スプリングラインより上部はレンガを組み合わせた構造になっています。

 甲賀市水口町岩坂附近は盛土構造になっているため

 小さな鉄橋が有ります、この鉄橋も橋台はレンガと切り石で組み上げられています。

 甲賀市水口町高山附近には関西鉄道会社の構造物を語る、最大のモニュメントが有ります。

 それがこの国分橋梁です。 一見何の変哲も無いレンガ作りのまんぽ(アーチ橋)に見えますが、関西鉄道の誇りを掛けたまんぽ(アーチ橋)ともいえる構造物です。

 それではこのまんぽ(アーチ橋)の特筆すべき詳細を説明させて頂きます、まず一番に目に付くのは

 パラペットに施された関西鉄道会社の社紋です。通常、扁額が施される場所に焼き過ぎレンガの小口を使って社紋が象られています。

  社紋の上を見てみると

 

 笠石の下に装飾帯が施されています、この装飾帯はディンティル(歯飾り)と呼ばれる装飾法と格子帯と呼ばれる装飾法を組み合わせたようなデザインになっています。 また、帯石と呼ばれる装飾は焼き過ぎレンガにて色合いの変化も加えられています。

 坑内アーチ部分にも装飾が施されていて

 トンネル内のスプリングライン(起拱線・側壁と上部のアーチとの接合線)が装飾帯になっており、この雁木は蛇腹と言われる装飾法でデザインされています、スプリングラインの下側(側壁)はオランダ積みと言われる積み方になっており、上側(アーチ)は長手積みといわれる積み方になっています。

 坑口の側壁はと言うと

 坑口と坑内との角石(コーナー)にも装飾が施されていて、焼き過ぎレンガと赤レンガ面を互いに組合すことで装飾するポリクロミーと言われる装飾法が施されています。

 南側はどのようになっているかと言えば

 北側と同じデザインになっています、坑口の覆工の末端を仕上げる迫持は焼き過ぎレンガを四重に重ね合わせた粗迫持と言うデザインになっており、坑口附近が古レールによって内部補強されています。

 国分橋梁の隣にある橋梁も特徴がある橋梁で

 新道橋梁と呼ばれる橋梁で、坑口の覆工の末端を仕上げる迫持は焼き過ぎレンガを四重に巻かれた粗迫持と言う組み方で施されていて装飾化されています。

 細かく見てゆくと

 パラペットの部分が2枚重ねの矢筈積みと言う装飾的組み方が使われています、この矢筈積みの適用例は極めて数が少なく、現存する判断する限り明治20年~30年代の様式と考えられています。 パラペットの上の装飾帯は焼き過ぎレンガと赤レンガの組み合わせにより持ち送り積みと言う組み方が施されています。

 国分橋梁と同じようにこのまんぽ(アーチ橋)もスプリングラインに装飾帯が施されています。

 スプリングラインの装飾帯に持ち送り積みと言う組み方が施されています。 階段状に組み上げられた装飾帯で上段と下段は焼き過ぎレンガの小口を使い、中段は赤レンガの長手積みで色合いと立体感で装飾されています。 

 南側の坑口はと言うと

 草が覆いかぶさり覆工の末端を仕上げる迫持は焼き過ぎレンガを四重に巻かれた粗迫持と言う組み方で施されていて装飾化されている部分しか判らない状態になっています。

 甲賀市水口町高山と水口町貴生川に掛かる草津線最長の橋梁です。

 杣川橋梁は20m超えのガターが4連繋がる橋梁で東西の橋台と第三橋脚はレンガと石積みで組み上げられた関西鉄道時代の遺構だと思います。 残念ながら第一橋脚と第二橋脚はコンクリート製の新しい橋脚に変わっています。

 東側の橋台は

 切石とレンガを組み合わせた橋台ですが、耐震処理をされているのか橋桁受けや橋台の上部は改修されてコンクリートになっています。

 橋脚も

 第三橋脚は切石とレンガで組み上げられた橋脚で橋台と同じように上部はコンクリートで改修されています。

 橋桁は

 銘板が残っているのですが、残念ながら関西鉄道時代の橋桁ではなく鉄道省の橋桁でした、銘板は腐食が激しく全てを読み取ることが出来ませんが、鉄道省という文字だけは読み取れます。

 貴生川駅の手前にある跨道橋はなぜか?

 東側の橋台が切り石だけで組まれています、関西鉄道時代にはこの部分が踏み切りか小さな跨道橋だったのかも? その後、交通量の増加に伴い新たに高架化されたのかもしれません。

 西側の橋台も

 切石で積まれた橋台です。