北陸本線

北陸本線とは

 滋賀県米原駅から日本海沿いに福井、石川、富山の各県の主要都市を結び新潟県上越市の直江津駅までを結ぶ350kmを越える鉄道で軌間は1067mmで官設鉄道として建設された鉄道です。

 明治時代の初期に東海道本線の支線として米原~敦賀港を結ぶ鉄道として日本人技術者の手で官営官設鉄道として建設され、明治15年(1882年)3月に長浜~柳ケ瀬間と同道口~金ケ崎(現・敦賀港)間が開通しました、柳ケ瀬~同道口間には山間部がそびえ立っていた為に柳ケ瀬隧道を計画し建設していましたが、柳ケ瀬隧道掘削工事が難航したためトンネルが完成するまでの2年間は徒歩連絡だったそうです。

 明治17年(1884年)4月に念願の柳ケ瀬隧道が完成し長浜~金ケ崎間が全線開通しました、敦賀より先は政府の財政難から民間資本による建設が計画されたが、諸事情により着工することが出来なかったために官設鉄道として建設することが明治26年(1893年)に決定された。

 敦賀より先の建設が未定だった明治22年(1889年)に米原~長浜間が延伸開業し、明治28年(1895年)鉄道局の線路名称制定で米原~金ケ崎間は東海道線とする事が決まり、敦賀より先を北陸線として工事が進められた。

 明治29年(1896年)7月には福井までの延伸工事が完成し、翌明治30年(1897年)9月には小松まで延伸、明治31年(1898年)4月に金沢まで延伸、同年11月に高岡まで延伸、明治32年(1899年)3月に富山まで延伸しました、明治35年(1902年)11月には米原~金ケ崎間を北陸線に編入する事が決まり全線で距離変更が行われました。

 明治36年(1903年)1月に長浜駅が移転し、明治41年(1908年)11月に富山線として富山~魚津間が開業しこれに伴い富山附近の経路が変更になり富山駅が移転、明治42年(1909年)6月に敦賀駅のスイッチバックを解消するために敦賀駅が移転、同年10月鉄道省の線路名制定で富山線は北陸線に編入され米原~魚津間、敦賀~金ケ崎間を北陸本線に改名しました。

 延伸工事はその後も続き明治43年(1910年)4月に泊りまで延伸、明治44年(1911年)7月信越線として名立~直江津間が開通、明治45年(1912年)10月に北陸線は青海まで延伸、同年12月信越線は糸魚川まで延伸、大正2年(1913年)4月に青海~糸魚川間が開業に伴い、信越線だった糸魚川~直江津間を北陸本線に編入し北陸本線全線が開通する事になりました。

 昭和32年(1957年)10月開通当初から山越えの難所だった柳ケ瀬隧道経由に変わり平坦線の木ノ本~近江塩津~敦賀間が開業し、旧線は柳ケ瀬線として分離され、昭和37年(1962年)6月北陸トンネルの開通と共に敦賀~杉津~今庄間が廃止され、同年9月倶利伽羅~石動間を倶利伽羅トンネルの開通により新線に切り替え、昭和38年(1963年)10月柳ケ瀬線の疋田~敦賀間が休止されバスに転換された、翌昭和39年(1964年)5月柳ケ瀬線は木ノ本~柳ケ瀬~疋田~敦賀間全てが廃止になりました。

 北陸本線は倶利伽羅峠や親不知、さらには日本最大の構造体(フォッサマグナ)を横断しており、日本海沿岸の高い山が迫る海岸線を走っていたために地すべりや高波により脱線転覆事故が多発していた、昭和41年(1966年)3月市振~親不知間を親不知トンネルの開通により日本海沿いの旧線より新線に切り替え、昭和44年(1969年)9月浦本~有間川間を頸城トンネルや名立トンネル、木浦トンネル、浦本トンネルの開通により日本海沿いの旧線より新線に切り替え、同年10月谷浜~直江津間を湯殿トンネルの開通により日本海沿いの旧線より新線に切り替えられ輸送力アップやスピードアップ、事故防止に貢献し、今の路線になりました。

1.旧線跡・今庄~敦賀間

2.旧線跡・敦賀~木ノ本間