田口鉄道株式会社その1
 

 

 


旧・豊橋鉄道田口線

本長篠駅より三河大草駅まで

 田口鉄道株式会社(豊橋鉄道田口線)は昭和4年5月22日鳳来寺口駅(現・本長篠駅)〜三河海老駅間が開通し、翌昭和5年12月清崎駅まで延伸、昭和7年12月三河田口駅まで延伸し、全線22.6kmが開通しました。

 軌間は国鉄(現・JR)と同じ1067mmで昭和27年からは国鉄飯田線に乗り入れて、豊橋まで直通運転が行われ、国鉄の季節臨時快速列車は名古屋駅より鳳来寺駅まで乗り入れていました。

 昭和31年10月に豊橋鉄道に吸収合併され、豊橋鉄道田口線となり、豊橋駅までの直通運転は昭和38年まで続き、翌昭和43年8月31日、田口線は廃線になりました。

 起点駅「本長篠駅」(愛知県新城市長篠字貝津附近)です。

 田口鉄道は1番線を使用し、赤い線で表示されている所を走っていたと思われます。

 上の写真に引き続き、駅を離れた線路は構内西側の小さな踏切を越えて曲がってゆきます。

 赤い線は線路が通っていたと思われる所です。

 この附近から田口鉄道は曲がりながら勾配を上ってゆきます。

 赤い線は線路が通っていたと思われる所です。

 上の写真と同じ所を反対側に回りこんで撮影してみました。

 赤い線は線路が通っていたと思われる所です。

 田口鉄道は飯田線と別れどんどん坂を登って行きます。

 赤い線は線路が通っていたと思われる所です。

 上の写真附近で、当時の構造物、腕木信号柱の基礎部分を発見しました。

 昔の写真でこの附近に構内腕木信号があったように思われます。

 同市長篠字大門附近、田口鉄道の跡地は道路になってしまっています。

 でもなだらかな上り勾配と言い、緩やかなカーブと言い、廃線跡を思わせる景色です。

 同市長篠字大門から同市長篠字竹下附近に掛けては、カーブを曲きり直線の上り勾配になっています。

 余談になりますが、この附近には河津町から送られた河津桜が植樹されており、案内板があります。

 同市長篠字杉下と同市長篠字日焼に跨る内金隧道です。

 このトンネルが田口鉄道の名残を留めているのはトンネル入り口の右側についている碍子位でしょうか。

 同市長篠字芳ヶ入附近、内金隧道を抜けると平坦になります。

 道路はここまででこの先の右側は教職員住宅になっています。

 

 教職員住宅を過ぎると空き地になっていました。

 田口鉄道の廃線跡はこのまま真っ直ぐ続いているようで。

 空き地の先の林に入ってみると、そこは切り通しになっています。

 この切り通しの先が田口鉄道廃線跡でも有名な大井川橋梁になります。

 林の中の切り通しを抜けると、木々の隙間から大井川橋梁の橋脚が見えてきました。

 同市長篠字丸井附近、県道32号線から大井川橋梁を見る。

 国道に立っている電柱と見比べると、この橋脚の高さが高い事が判る。

 大井川橋梁の橋脚の下から橋脚を見上げるとこんな感じに見えます。

 高さは10数mの高さがあると思われます。

 対岸(新城市長篠字東谷下附近)の橋台も確認できます。

 新城市長篠字東谷下附近の橋台の上に登って見ました。

 川の中央に鎮座する橋脚の天場が良く見えます。

 橋台の上部南側はコンクリートで固められています。

 樹木の生命力は強いもので、廃線跡には木々が根を張り立ち並んでいます。

 同じ橋台の上部を反対側に回り込んでみてみました。

 鋭角に突き出ている橋台はこちら側は石積みのように見えます。

 新城市長篠東谷下附近の切り通しの跡です。

 長年の風雨にさらされて、一部は落石で埋まっています、足元にはバラスとが転がっていて廃線跡だと言う実感が湧いて来ます。

 新城市富保井ノ原から向原、荒井前の附近です。

 切り通しになったり、片崖になったりしながら、ほぼ直線で廃線跡が有ります。

 改めて廃線跡の遺構だと思える石積みの側溝がありました。

 低い切り通しの土手は石積みで補強されていたみたいです。

 新城市富保桐ヶ久保附近です。

 この先は切り通しが崩されているのでこれより先には進めませんが、この下を横断している道路は田口鉄道が走っていた頃は築堤をトンネルで潜っていたようです。

 新城市富保中ノ久保附近で駅の遺跡を見つけました。

 この駅は三河大草駅の跡のようです。

 遠くに富保トンネルが見えていますが、続きは第二章でご紹介致します。

2009年8月15日撮影