東海道本線(大阪~高槻間)

 この区間は明治9年(1876年)に開通しましたが大阪(大阪市淀川区西中島附近)~吹田(吹田市清和園町附近)間は当初、現・阪急京都線、千里山線の西中島南方駅東方~吹田駅南方のコースを走っていましたが、大正初期(大正7年~9年?)に現在のコースに変更されました。

 開通当初は大阪駅附近も地上線であった為に当時の遺構は皆無に近い状態ですが、大阪市北区附近には明治時代?の構造物が残っています。

 大阪市北区豊崎附近の本線東側には石積みの法面が残っています。

 また、この写真の右側は明治時代の構造物と思われる

 レンガ作りのまんぽが残っています、翼壁や壁面はコンクリートで固められていますが、覆工は残っています。

 西側は複々線工事で見れなくなっていますが、トンネル内に入ってみると西側の覆工の一部が見られます。

 東側の抗門はコンクリートで固められていたので覆工の周りがどのような構造か判りませんでしたが、西側を見て当時の構造が判りました、覆工の周りは石積みの構造だったのですね。

 このまんぽから北へ約100m、新淀川の堤防にも明治時代の構造物が残っています。

 この区間は3複線になっていますが、その真ん中の東海道本線上り線の橋台だけがレンガと石積みで築かれています、ただ、上半分がコンクリートで覆われているために明治時代からこの高さだったのか?は不明です。

 堤防を越えた北側にある橋脚も

 レンガと石積みで築かれています、この橋脚も近くによって見ると。

 橋台と同じように上部がコンクリートで覆われていますので高さ的には不明です。

 この橋脚には特徴があって

 下部にデザインが施されています、2重のアーチ型が組み込まれています。

 またレンガの構造物の下にある基礎は

 石造りとコンクリート?の構造物のようです。

 この上淀川橋梁に掛かっている鉄橋は明治時代のトラス橋で銘版が

 残っていますが腐食が始まっていて詳しくは読めませんが1800年代の鉄橋のようです。

 新淀川を渡ると大阪市淀川区になります、先にも書きましたようにここで現行線とは離れ、現在の阪急電車の京都線と同じコースをたどります。

 阪急電車の線路下には遺跡がところどころ残っています。

 大阪市東淀川区下新庄の神崎川堤防の南側約100mには

 レンガ造りの橋台が残っています、新設時から複線で計画されていたのか橋台は繋ぎ目が無く複線の橋台になっています、東海道本線の特徴?この時代の特徴?なのか、橋台の中心部にアーチ状のデザインが施されています。

 そして神崎川橋梁でも当時の遺構が数箇所見ることが出来ます。

 一番大阪寄りの橋脚は

 レンガ造りの橋脚が残っています、この橋脚は橋脚の断面形状から矩形型橋脚ですが、この新神崎川橋梁には形の違う橋脚が複数あります。

 上の写真は8番目の橋脚です、この橋脚は前掲の写真とは違い円形ウェルと呼ばれる円形の柱2基を基礎としてその上に矩形の橋脚を乗せた複合型の橋脚で別名「夫婦ウェル」と呼ばれる橋脚です。

 5番目の橋脚と同じく8番目の橋脚も「夫婦ウェル」で

 残念ながら橋脚の上部はコンクリートで覆われているために元の形は判りませんが、5番目と8番目の橋脚の特徴として下部の円形ウェルに注目しました。

 5番目の橋脚は上流側の円形ウェルは流水にさらされやすいために石積みで作られていますが、下流側の円形ウェルはレンガ積みになっています。

 さらに新神崎川橋梁を遠めに見てみると

 明治時代に作られた橋脚がどの橋脚なのか?判らなくなってしまいます、ただ、第1橋脚と第6橋脚はレンガ積みの矩形橋脚で第3橋脚と第4橋脚、第7橋脚、第9橋脚、第10橋脚はレンガ積み橋脚をコンクリートで覆った形状になっています。

 第2橋脚と第11橋脚は小判型断面のコンクリート橋脚ですので、後年作り変えられた可能性があります。

 この後東海道の旧線は吹田市寿町で現在の阪急千里山線とは別れ住宅街の中を通り現在の東海道本線と合流します。

 さらに北へ進んで千里丘駅の北側へ約900m「三条川橋梁」があります。

 この区間では始めての石積みの橋台が残っていました。

 三条川橋梁は南側も北側も石積みの橋台が残っています。

 さらに北へ・・・・茨木駅の北側へ約400m