大阪鉄道株式会社とは
明治21年(1888年)に大阪から奈良・伊勢・和歌山に至る線路を計画して設立された鉄道会社で軌間は1067mmで敷設されました。
しかし、当時滋賀県草津駅を基点に大阪・京都・名古屋にも進出の意図があった「関西鉄道」と路線が競合するために、「関西鉄道」と調整の結果、湊町駅~奈良駅間を本線として免許申請をし建設が始まりました、免許申請にあたっては条件がつけられ、大阪側は官設鉄道の大阪駅に接続する事になっていました。
当初の計画では湊町駅より延長し市街を縦断して大阪駅まで伸ばす事も考えられていましたが、結果として住宅が建て込んでいない天王寺から玉造、京橋、桜ノ宮経由のコースで建設され現在のJR大阪環状線(国有化当時は城東線と呼ばれていました。)の東半分になりました。
明治22年(1889年)5月に湊町~柏原間が開業し、翌23年(1890年)9月に亀瀬(仮駅)まで延伸し、同年12月には奈良側の王寺~奈良間が開業しました。 引き続き延伸工事は行われ明治24年(1891年)2月に王寺より稲葉山(仮駅)まで延伸され本線は亀瀬~稲葉山間の亀瀬隧道を残すのみとなり、同年3月桜井支線の王寺~高田間が開通し、明治25年(1892年)2月に亀瀬隧道が完成と共に湊町~奈良間が全通しました。
支線の工事も引き続き行われ、明治26年(1893年)5月に桜井支線も桜井まで開業した、明治28年(1895年)5月には免許交付時の条件であった大阪駅までの延長工事の中、天王寺~玉造間が開業し、同年10月には大阪駅まで開業し全線が開業しました。
この大阪鉄道と関西鉄道は株主に共通の者が多かったため、合併の話が持ち上がり明治35年(1900年)に関西鉄道に譲渡されました。
大阪鉄道という名前は大正8年から昭和18年までも使われていましたが、今回の大阪鉄道とは関係なく、明治31年(1898年)に開業した河陽鉄道が翌32年(1899年)に河南鉄道に譲渡され、この河南鉄道が大正8年(1919年)に大阪市内への乗り入れを目指して社名を大阪鉄道に改称したため、同じ名前の鉄道会社が時代を超えて存在しました。