関西鉄道大仏線の遺構を探しにJR奈良駅より出発です。
現在奈良駅周辺は高架工事に伴い都市区画整理の工事中で奈良駅付近から佐保川に至るまでは廃線跡が残っているような感じはありませんでした。
奈良県奈良市法蓮町に佐保川が流れています、この佐保川にかかる道路橋の横には関西鉄道時代の橋台の基礎が川の底に見えています。 この橋台の基礎の周りは太い材木で囲まれていてその中にレンガで作られた基礎が残っています。
道路橋を北に向かって渡った所には「大仏鉄道記念公園」と言う広場があり、大仏鉄道の由来や蒸気機関車の動輪がモニュメントとして展示されています。
大仏鉄道記念公園の動輪のモニュメントの下には関西鉄道大仏線の歴史や大仏駅の場所、利用価値などが刻み込まれています。
法蓮町から法蓮佐保山1丁目に掛けては関西鉄道が何処を通っていたのか判らない状態ですが、法蓮佐保山1丁目からは県道44号線が関西鉄道の廃線跡だそうで、奈良阪町の国境食堂と梅谷口交差点の間で県道44号線の下に関西鉄道時代の構造物を見ることが出来ました。
上の写真の中で右の山の麓にアーチ橋「まんぽ」が現存しています。縦長のアーチ橋「まんぽ」ですが、小さいながら作りはしっかりとしていて関西鉄道時代の特徴がよく現れているように思います、坑門は迫石が石造りで要石もしっかりとあり石工の技術が映えているアーチ橋「まんぽ」だと思います。
特にこのアーチ橋「まんぽ」で特筆すべきことは側壁の下部にレンガで階段状に装飾が施されていることです、レンガや石で作られたアーチ橋「まんぽ」を見てきましたが小さなアーチ橋「まんぽ」でも拘りを持って作られていることが良く判ります。
県道44号線は梅谷交差点から西の方向に曲がりますが、関西鉄道は北の方に進んでいたと思われます、この梅谷交差点の北側(梅谷大字池ノ谷)に市道下梅谷観音寺線に沿って盛土を思わせる土地がありました。 この土地が関西鉄道の跡地かどうかは判りませんがカーブの大きさや緩やかな勾配からはこの場所に線路があったように思えます。
市道下梅谷観音寺線を北の方向へ京都府木津川市鹿背山附近までやってきました、切通しと盛土の道を進んで来ましたが景色が少し開けたところまで来ました、ここはインターネットや書籍で紹介されている場所で、重量制限の看板の向こう側になります。
この橋梁が「赤橋」と呼ばれる橋梁で、関西鉄道大仏線の遺構として有名な橋梁です。 レンガと石を組み合わせて作った橋台は清楚でありながら重量感あふれる橋台に見えてきます。
「赤橋」の反対側(北側)から見上げてみました。 橋台でありながらアーチ橋やトンネルの坑門のように笠石や帯石が施されているのは、関西鉄道の技術者の拘りでしょうか。
「赤橋」から北東へ100m移動したところにある、こちらもインターネットや書籍で有名になりました関西鉄道大仏線の遺跡、「梶ヶ谷隧道」です。 南側から見ると草が覆い茂り重厚感があるアーチ橋(まんぽ)でスプリングラインの下側は石積み、上側はレンガ積みなっています。
「梶ヶ谷隧道」を北側から見ました、構造は同じなのにこちらの面はアーチが小さく感じるシンプルなデザインです。 笠石や帯石と言った装飾も無く翼壁も草に覆われているためにこじんまりとした感じに見えます。
京都府木津川市加茂町観音寺附近にやってきました、市道と県道324号線が合流し、県道324号線が北へ曲がるところをそのまま直進しますと左側に枕木で柵が作られているところに出てきます、その場所から市道は下り坂になるのですが、坂を下った左側に「鹿背山アバット」と呼ばれている橋台が現存します。
この「鹿背山アバット」は石造りの橋台で重量感が感じられる橋台です、この橋台は「JTBキャンブックス・鉄道廃線跡を歩くⅡ/宮脇俊三編著」の折込写真として使われている関西鉄道大仏線の遺構です。
「鹿背山アバット」から東側には関西鉄道大仏線時代の盛土が残っています、草が覆い茂っているので輪郭ははっきりしませんが、のり面の角度から考えると盛り土のようです。
ここから東方に少し行った所に関西鉄道大仏線時代の遺構があと2箇所あるそうですが、今回は見つけられずに現関西本線と分離する場所を探しに移動しました。
京都府木津川市加茂町高田附近にやってきました、加茂駅方面を眺めている状態ですが、現関西本線に並行するこの盛土は関西鉄道大仏線の盛土ではないかと考えるのですが。
小さな農業用の踏み切り附近から木津駅方面を眺めています、この先のカーブを曲がり谷をひとつ越えた附近から関西鉄道大仏線と関西鉄道本線は南の方向へカーブし、現関西本線とは違うコースを走っています。
関西鉄道大仏線は加茂町大山田附近にある池の南側を通り、上の写真にある「鹿背山アバット」を通り現在の市道となっているところを走っていたようで、現在、市道が県道324号線となっている部分が関西鉄道時代の「旧鹿背山隧道」が有った場所のようです、関西鉄道本線は池を過ぎた辺りから関西鉄道大仏線よりそれる様に北上していたようです。 その証拠とは言い切れませんが、上の写真を撮影した足元に次の写真のような構造物が現関西本線の向こう側と廃線跡と思われる盛土の外側に現存しています。
線路寄りの壁面(写真左側)はレンガ作りで写真の右側はコンクリート製です、この構造物は現在は用水路のトンネルとして使われていますが、関西鉄道時代は何に使われていたのか?その当時から有ったのか? 疑問の残る構造物です。
上の地図は国土交通省の航空写真アーカイブスに収納されている1946年当時の航空写真を元に私が独断で現代の地図に線を引いてみました。